「音声チック」理由に工場へ異動させられ 決意した脳に電極埋め込む手術、背中を押した夢
意思に反して体を動かしたり、声を出したりしてしまう神経疾患「トゥレット症」の当事者たちは、様々な生きづらさを抱えながら生きている。症状を理由に職場を追われたある男性は、30歳を前に外科手術を決意。症状も軽減し、念願の教師として一歩を踏み出した。(加藤雅浩) 【動画】病気を理由に職場を追われた28歳男性、外科手術をへて夢の教師に
「気にしない」が一番の配慮

昨年から千葉県内の高校で美術の授業を担当している大内さん(高校の職員室で)
梅雨明け間近の7月中旬、美術の教師として千葉県内の高校に勤務する大内翼さん(28)は、職員室で電話やメールで関係者と連絡を取り合っていた。大学でデザインを学んだ経験を生かし、地元の民芸品などを、生徒を指導しながら一緒に作っている。十数人が机を並べる職員室で、時折「あっ」と大きな声が出ても、周りが気にする様子はない。自席は端の方に配置してもらい、症状がひどいと感じたときは、隅に置かれた長机や、他の空き部屋で作業をする。「症状を気にしないでいてもらえるのが一番の配慮です」。ようやくたどり着いた場所で笑顔がこぼれた。
主な症状は音声チック
トゥレット症は、突然短く叫ぶなどの「音声チック」と、首を振るなどの「運動チック」が慢性化し、両方のチックが1年以上続いた場合に診断される。発症は200人に1人程度。成人までに症状が消えたり軽減したりする人は多いものの、一部の人は成人後も激しいチックが続く。チックを発症する原因には、脳の神経回路や神経伝達物質の異常が関係しているといわれている。現代の医学では完全に治す方法は見つかっていない。 大内さんに症状が表れ始めたのは幼稚園のころ。目をパチパチさせるようになった。大学生になってからは音声チックがひどくなり、「さすがにこれは病気なんじゃないか」と思った。大内さんの場合、症状は音声チックが主で、運動チックとの割合はおおむね7対3だという。
症状を理由に異動
過去には、病気や症状を理解されず、苦い経験もしたという。大内さんは大学卒業後の2017年4月、教師になる前に、都内の企業へ就職した。スポーツ関係のロゴのデザインを担当したが、数年したころ、先輩社員と自身の音声チックを巡り口論になった。自分の机を蹴りながら、周りに聞こえるほどの大きな声で「うるせえな」と口にした先輩に「いまなんて言いましたか」と詰め寄った。それまでにも何度か愚痴をこぼされることがあり、我慢の限界だった。同僚の仲裁でその場は収まったものの、翌日、報告を受けた社長から食事に呼び出された。「我慢しろよ」「病気なんて気持ちの問題だ」と話す社長に、「すいません」と答えるしかなかった。
しばらくして、群馬県にある工場への異動を告げられた。社長からは「工場では機械が動いているから、周りの人も君の声は気にならないだろう」と言われた。理不尽な辞令に怒りがこみ上げる一方、悪化した人間関係から解放されると安堵(あんど)した。工場で1年ほど働いたころ、新型コロナが国内でも広まった。そのあおりを受けて会社からは退職を促され、言われるままに職場を去った。「割と早めに選ばれてしまったということですね」。言葉少なに振り返った。
手術を決意

大きな決断をしたのは、その後、岩手県で地域の活性化を図る「地域おこし協力隊」として活動をしていたころ。薬を飲んでも症状は改善しない。病気を理由に職場も異動になった。30歳を前に「これからの生活、どうなってしまうのか」と、日に日に不安が募った。以前、脳深部刺激療法(DBS)という外科手術について調べたことがあった。脳内に埋め込んだ電極から電気刺激を与え、症状の緩和を図るという手術だ。その時、主治医は手術にはあまり前向きではなく、「自分にはそういう道がないのか」と感じた。改めて調べてみると、国内でも行われていることがわかった。外科手術が現実味を帯びてきた。脳に電極を埋め込む――。「手術が失敗して、死んじゃったら死んじゃったで『もういいや』」と心を決めた。中学生のころから教員という職業に憧れてきた。その夢が背中を押した。 母親にはLINE(ライン)で思いを伝えた。「いまの職場では病気について何も言われない。そういう優しい人たちに迷惑をかけたくないから」と、メッセージを送った。教員になりたいという夢とともに、母親が心配しないように、言葉を選びながら気持ちを伝えた。反対はされなかった。息子が病気で苦しんできたことを、母親は誰よりも知っていた。 2021年、国内の病院でDBSを受けた。先端に電極がついた2本の電線が、脳内の深さ約8センチのところまで埋め込まれた。DBSはパーキンソン病の治療に用いられ、1999年に世界で初めてトゥレット症への適用が報告されたという。その後、日本でもトゥレット症の当事者に対して行われるようになった。手術例は決して多いとはいえず、精力的に行っている病院でも年に数件程度。望みをかけ手術台に上った。
電流を調節して症状軽減
今年6月上旬、大内さんは国立精神・神経医療研究センター病院(東京都小平市)を訪れた。ここで3か月に1度、主治医の木村唯子医師と相談しながら、電流の調節を行うのだ。DBSは手術後、すぐに効果が表れるわけではない。電流を定期的に調節しながら、症状が軽くなる「パターン」を探っていく。
「めまいはしますか」。木村医師が機器を操作しながら声をかける。大内さんは「電流が『変わったな』という感じはしますが、めまいはありません」と応じた。「もう少し上げてみましょうか」(木村医師)、「大丈夫です」(大内さん)。毎回、こうしたやりとりを繰り返しながら、大内さんに合った四つのパターンを作る。パターンが決まると、大内さんは設定用のスマートフォンを使い、その時の症状に応じて四つの中から最適なものを選び、変更する。調節を続けるうちに、音声チックで出る声は小さくなり、症状が出る回数も減った。チックが起こる前の不快な兆候「前駆衝動」は弱まり、症状自体も我慢しやすくなった。「それまでは電車やバスでの移動が苦痛だったが、手術後は抵抗がなくなった」という。
もちろん手術はメリットばかりではない。手術による脳出血の危険性もゼロではなく、術後は髄膜炎などのリスクも伴う。電流を強くし過ぎたり、流す範囲を広げ過ぎたりすると、滑舌が悪くなったり、手先がしびれたりすることもある。DBSは完治を目指すものではない。執刀経験がある医師は「症状が残ってしまうと、怒り出す人もいる。症状とのうまい付き合い方を理解した上で受ける必要がある」と過度な期待には警鐘を鳴らす。
大学時代の恩師に近況を報告するため、大内さんは4月中旬、母校の和光大学(東京都町田市)を訪れた。今年度いっぱいで定年退職を迎える元指導教官の倉方雅行教授の研究室には、大学時代に制作した作品がいくつも残っていた。高校での授業や職員室での様子を伝えると、倉方教授は何度もうなずいて話に聞き入った。同じ研究室の同級生、岡本如月(きさらぎ)さんも加わり、当時を懐かしんだ。
大内さんには大切にしている言葉がある。岡本さんからもらった「意外な」言葉だ。1年前の冬、電話で話をしていたときのこと。自身が手術を受けたことが話題になると、岡本さんから「障害なんてあった?」と尋ねられた。大学4年生から社会人2年目ぐらいまでの間が、最も症状がひどい時期だった。岡本さんの前でも症状は出ていた。病気があることも隠してはいない。それだけに、岡本さんの「うそ偽りがないような言い方」(大内さん)には驚いた。その時の思いを尋ねた記者に、岡本さんは「学生時代、本人は悩んでいたかもしれないけれど、それが気になったことはなかったですね」と振り返った。横で聞いていた大内さんは「割とというか……、(『障害なんてあった?』と言われたのは)たぶん一番うれしくて」と、照れくさそうに返した。
念願の教師となり、1年以上が過ぎた。今年から担当する授業の数も増えた。やりがいもある。生徒には「人とは違うアイデアを出せるようになってほしい」と思いを口にする。現在の職場には、症状を気にしない同僚がいる。かつてつらい思いをした場所とは違う。「ここでなら続けられる」。そう確信した。